今日は、娘を通してふと考えたことがあったので、それを書きたいと思います。
保育園でのある日の体験から
娘を預けている保育園では、毎週体育の時間があり、その時々に組まれたプログラムを実施してくれます。
体育といっても、1〜3歳ほどの小さな子どもたちなので、遊具を使って楽しく遊んだり、簡単な障害物コースをきゃっきゃとはしゃぎながらチャレンジしたりという感じです。
先週も体育の時間があり、保育園から送られてきた写真を見たら、その日は大きなエアー遊具が使われていました。
立派なエアー滑り台、トランポリンのような弾むスペースで、子どもたちが楽しんでいる様子が専用アプリでアップされていて、偶然一緒にいた同じ保育園のママ友さんと微笑ましく写真を見ながら話をしていました。うちの子どこかな〜、と探してみると、案の定といいますか、予想よりもはるかに激しいレベルでギャン泣きしていました(笑)。
我が娘、とってもビビリなんです。
小心者?慎重派?どちらもかもしれないのですが、エアー遊具がすごく大きかったので、恐らく楽しさよりも怖さが勝ってしまったんだと思います。それでも、大泣きして真っ赤な顔をしながらも滑り台を滑っている写真があったので、先生方が「やってみれば楽しいよ!」というつもりで滑らせたんだろうか?などと思いながらみていました。
時間は進みまして、娘が帰ってきたあと、保育園バッグから紙の連絡帳を取り出し、先生が書いてくださった今日の様子を読みます。
するとそこに、こんな風に書いてありました。
今日はエアー遊具をやったのですが、娘ちゃん、怖かったようでもの凄く泣いてしまいました。でも「わたしもやる」と言ってくれたので、滑り台の上に登らせたところ、そこでも怖かったようでもうひと泣きしました。それでも泣きながら「滑る」と言って滑ってくれました。
そうか、娘ちゃん、自分で「やる」と言ったのか。
そしてその「やりたい」って気持ちを言えたのか。
「やりたい」って気持ちはあったけど、「怖い」っていう感情が出ちゃったんだね。
と、そんなふうに思いました。
ここで浮上した私の疑問
そこで私は自分が持った感想に対して、ふと疑問に思いました。
「気持ち」と「感情」って一緒?別のもの?
でもわたし今自分で無意識に使い分けて感想を持ったよね?
そういや正しい説明はどうなんだろうか?
このふと浮かんだ疑問に対する自分なりの仮説はこうです。
「気持ち」も「感情」も心で感じることであり、その点は同じ。
両者の違いを意識して使うとしたら、
「気持ち」は
『心で感じたことを一旦自分の中で咀嚼して頭で理解し、理性を通して外にアウトプットすることができる状態になったもの。感情を言語化できた状態。』
対して「感情」は
『心で感じた度合いが強く、条件反射的に(本能的に?)自分の意思に関わらず、外に出てしまったもの。コントロールが難しいもの。理性を通る前の心の持ち様。』
どう思いますか?
何か調べたりする前に、自分的に思い浮かんだ回答なので浅くてすみません(笑)。
「気持ち」と「感情」
ということでちょっと検索してみました。
本当は、日本にいたら図書館に行って複数辞書を読み比べしたりしてみたかったんですけど、ここは韓国、それは無理。辞書も持ってきていないので、Webに頼ります。
Weblio辞書によると、「気持ち」と「感情」について、それぞれ以下のように書かれていました。(長い説明はありましたが、今回疑問に思ったことに対してしっくり来た箇所だけを抜粋しています。)
感情
感情(かんじょう)とは、人間が体験する心の反応や状態を指す言葉である。
(中略)感情は、個々の体験や状況に応じて生じ、行動や判断に影響を与える。
言語学者、有識者の方のご意見や指導を聞いているわけではないので、正解・不正解は判断できませんが、自分としては何となく遠からずなことを考えていたのではないかという印象でした。
「気持ち」はやっぱり「考え」るという要素が入ってくるんじゃないか。
「感情」は「心の反応」。そして「行動や判断に影響を与える」もので、判断した後のことではなくて、判断する前の判断材料の一つなんだな。
そんなふうに理解しました。
検索結果からの考察
今回の娘の例でいうと、心で「やりたいな」と感じて、その感情は頭を通過して、言語化して先生に伝えることができる「気持ち」となった。けど、思わず顔を真っ赤にしてぽろぽろと涙を流してしまうほどに「怖い」という「感情」は止めることができなくて溢れ出てしまった。
そういうことなのではないか。
大人でも、隠しきれず目や表情に出てしまう怒りの感情とか、抑えることができない悲しさとか、無自覚に足取りが軽くなっちゃうような嬉しさとか、そういう感情がありますよね。
そして例えばそんな自分に対して「今どんな気持ち?」と聞かれたら、その時初めて、そういえば、、って自分の感じていることを俯瞰して理解しようとして、さらにその後に他者に伝えるために言語化してっていう作業をしてから、「今こんな気持ち」と言えることってあるんじゃないかなって思って。
しかも「今どんな気持ち?」って聞かれることはあっても「今どんな感情?」って聞かれることはちょっと珍しいかもなって思ったり。
と考えると、感情って、『俯瞰する→理性で受け取る・考える→言語化する→外に出す』というステップを踏まない限り、自分の外に出ていかないものなんだと思ったんです。
プラスの感情も負の感情も、知らないうちに抑え込んで、
きちんとした人間の状態で社会に溶けこもうとする傾向が多い大人にとっては、自分が感じた「感情」を外に出す行為というものは、とっても大切な作業なのかもしれない。
自分の頭で「感情を外に出すぞ」って作業開始をして、能動的にアウトプットしようとしなくては、ただ自分の心に蓄積し続ける一方なのかもしれない。
そんなふうに考えました。
結論、やっぱり育児って面白い
凄いですよね。
娘の保育園での体験を通して、こんな長文になるこれだけのことを考えさせられた。
暇なんでしょうね、わたし(笑)。
でもやっぱり育児って凄いなと。
仕事中にこういうことを改めて考える機会は日常的にあったものの、娘の体験や育児を通して考える機会にも恵まれるという現象。
2歳になった娘が少しずつ言葉を使えるようになってきて、0〜1歳のときとはまた違った種の学習機会を与えられた気がします。
結び
ちなみに私としては、怖いとか苦手とか、そういった心地よくない体験も含めて、家ではできない体験ができるという点が保育園にわざわざ通っている利点だと考えているため、娘が泣いていること自体は「ははは、やっぱり笑。」というぐらいの捉え方をしています。
また、大泣きしながらも「やりたい」といった娘の意思を尊重してお手伝いしてくださった先生には感謝ですね。(うちで娘一人を相手しているだけでもいっぱいいっぱいなので、先生方には頭が上がりません。)
あと私は英語を勉強しているのですが、英語だと「think」に集約されるんでしょうか?
それも調べてみようかなと思いました。
というところで、今日の日記は終わります。